This room is for the exhibision of Japanese civil aircrafts during the wars.
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Nieuport24c / 1924

1920年代初頭に日本陸軍が主力戦闘機としてフランスから大量に買い付けた機体ですが、当時の技術革新の波によってあっという間に旧式化し、民間に大量に払い下げられました。1924年に大阪で開催された東西定期航空会というイベントに参加したこの機体は、胴体前半部に、朝日が翼を付けた不思議なマークが記載されています。[Roseplane/resin]



Junkers Ju160 /1939

名門ユンカース社が開発した高速旅客機。従来の波板構造から脱却して同時代のライバル、ロッキードオライオンや同じドイツのハインケルHe70を凌駕することを目指した野心的な設計です。特徴的なのは当時としては思い切った後退角を持った主翼と左右非対称のメイン風防。日本陸軍は3機を購入し、傷病兵輸送機として運用しました。その後民間に払い下げられ満州や台湾で余生を送ることとなります。[Airmodel/vacuform]



Nakajima AT2 airliner / 1936

米国で大成功となったダグラスDC2を参考に、国産初の本格的な旅客機として中島飛行機が開発した機体です。降着装置を始め多くの機構がDC2のものをサイズダウンして採用されましたが、外観上もっとも独創的で目立つのは下部が後退した不思議な形の操縦席風防。あまり他に類を見ない設計ですが、荒天時の視界改善には効果があったとされています。大日本空輸では採用後、満州と日本本土を結ぶ定期路線に就航、その第一号機は北関東の名峰にちなみ"榛名"と命名されました。良好な性能が陸軍にも注目され97式輸送機として民間型よりもはるかに多くが生産されています。[Converted from MPM's DC2 kit]



Mitsubishi T1.2 Mainichi Newspaper Company / 1929

海軍から払い下げられた往年の名艦攻13年式艦上攻撃機は、退役後三菱で民間旅客機として使用すべくいくつかの改造を加えられました。しかし操縦席からの前方視界が良くないため旅客機としての安全性に難色があり計画は半ばで頓挫。その後欠点となる前方視界改善のため操縦席を翼上前方に配置し,乗客4人を収容するキャビンを設けた改造機が作られ、毎日新聞社機ではこれを社有機として使用しました。三張間の翼組はそのままですが、これだけ胴体形状が様変わりしてしまうと、もはや原型の13年式艦攻の面影はほとんど感じることができません。[Choroszy / resin conv.]



AVRO504 /1932

海軍の練習機として長期に亘って愛用された本機は1930年代には大量に民間に払下げが行われました。そのうちの一機は長野県小布施の老舗菓子店二葉堂のビラ巻き宣伝飛行に使われ人気を博しました。とある新聞記事でそうしたエピソードを読んで以来、いつか作ってみようと思っていたのが今回のモデルです。何故か胴体に映画会社松竹のロゴが描かれています。[Airfix.]



Nakajima P1mailplane / 1934

海軍が90式水偵として採用ライセンス生産した、米国のコルセア水上機をベースに中島が開発した郵便機です。エンジンを英国のジュピター空冷に換装、上翼をシンプルな直線翼に改めた本機は、郵便機として良好な性能を発揮し、民間で活躍しました。夜間での運用も考慮し下翼に大きな着陸灯が吊り下がっています。モデルは九州逓信局が使用した珍しい登録記号(J-KUCU)の機体。実機同様レジンキットのコルセアからの改造で仕上げました。[Alliance /resin conv.]



Junkers A50 Junior"Hochi-Nichibei-go"/ 1931

戦前の各新聞社は、他社に先駆けてスクープ情報を紙面化するために、自社所有の飛行機を多用しました。朝日、毎日に航空機部門で大きく後れをとっていた報知新聞社は、起死回生の大イベントとして、太平洋を飛行機で横断するというプロジェクトを立ち上げ、本機ユンカース製の小型機を"報知日米号"と命名して大いに喧伝しました。しかし千島列島を島伝いに米国まで到達するには、本機はあまりにも脆弱過ぎ、途中での故障が相次ぎ結局計画は不成功となったのです。[DEKNO models / resin conv.]



Mitsubishi "Yamato-go" /1939

第二次大戦の直前に世界一周飛行の快挙を成し遂げたニッポン号に続き、同年暮れに欧州への訪問飛行を行った同型の機体です。出発の時点ではすでに欧州で戦争が始まっていたことから、目的地はまだ中立を保っていたイタリアに限定され、一か月後の翌年1月に無事に日本へ帰還しました。本機の開発は三菱が技術ライセンスを購入したドイツ、ユンカース社の影響を大きく受けていますが、いかにも日本的な繊細で優美なフォルムを備えた傑作機です。しかし本来の開発目的である海軍の陸上攻撃機としては、長大な航続力を誇ったものの被弾に対する防御がまったく考慮されておらず、脆弱な機体でもありました。[LS]



Cierva autogiro C19 / 1933

スペイン人シエルヴァ技師が設計したオートジャイロです。オートジャイロはヘリコプターとは違い、回転翼を使って浮揚した後は前方のプロペラを回して飛行する仕組みであり、ヘリコプターのようにホバリングは出来ません。それでも長大な滑走路を必要としないところから重宝する、と考えた戦前の朝日新聞社は、1機を購入しました。しかし実際に使ってみると、本来の報道通信用途には荷が重く、とにかくフワフワと低速で飛ぶことだけが取柄の機体でした。このため同社は「空中新道中膝栗毛」と称して、日本全国を空から訪問して回るという企画を実施。大いに人気を博しました。[Azur conv.]



Itoh-shiki Emi type20 "Oguri-go"/1921

日本の航空史は徳川大尉のアンリファルマンによる初飛行から始まりますが、その後の民間航空を牽引した元祖飛行機野郎の一人、伊藤音次郎が設計製作した機体の一つが、この伊藤式恵美20型です。アメリカ帰りの飛行家、小栗常太郎の注文に応じて制作された本機は、第一次大戦で広く使われたルローン回転式空冷エンジンを搭載し、ソッピースやニューポールに影響を受けたと思われる極めてオーソドックスな機体を組み合わせた手堅い設計となりました。唯一特徴的な多角形の垂直尾翼が伊藤式の機体としてのアクセントになっています。下翼にオーナーの"小栗"の名前を大書きされた本機は、1921年に開催された懸賞飛行大会に出場しましたが成績は振るわず、その後小栗常太郎の作った飛行学校で練習機材として使用されました。[Full scratch built]



Salmson D6 "Cri Cri"/1938

第一次大戦後、陸軍が正式採用し、退役後は広く民間に払い下げられ、日本の航空黎明期の中心的な機体がサルムソン2A型です。しかしその後もう一つのサルムソン機が日本に輸入されていたことは、よほどの航空マニアでもあまり知りません。本機は立川航空機がたった一機だけ、おそらく研究用として輸入したもので、コオロギを意味するCri Criの愛称を持っています。本家フランスでは300機近くが空軍と民間で使用されたようですが、日本での評価については記録が乏しく謎の機体となっています。[Dujin /resin]



Hansa seaplane "Sakai Gakudou Giyu-go"/1931

日本海軍黎明期の水偵ハンザ型は、敗戦国ドイツから購入され、第一次大戦時のベンツ150Hp装備型からイスパノ300Hpに換装後に、中島や愛知でライセンス生産されました。当時としては革新的な単葉水偵で、耐波性に優れ頑丈な機体でしたが、縦安定性に難があったと言われ、後継水偵への改編の後、多くが民間に払い下げられて余生を過ごしました。その中でも堺市の学童航空部が使用した機体は、その目を見張るようなカラフルないでたちで他を圧倒しており、モデラ―の制作意欲を刺激します。 [Veedy /conv.]



Hanriot HD14 / 1932

日本陸軍航空隊の創設期には、大量のフランス機が採用されましたが、本機アンリオ練習機もその中のひとつです。初歩練習機らしく、新米パイロットには最も難しい着陸時の安全を考え、前のめりの転倒を防ぐそりを備え、左右ダブルの車輪で着地を安定させています。この機体も後継機による改編に伴い退役とともに民間に多くが払い下げられました。モデルは千葉県津田沼飛行場を本拠とする亜細亜飛行学校での使用機です。 [Omega Models / resin]



Sopwith Pup "Masuda go" / 1923

 第一次大戦後に帝国海軍が英国から輸入した本機は、広い翼面積と上下食い違いの両翼配置により、低速での失速特性に優れた使いやすい機体でした。このため、日本で初めて空母への離着艦実験が実施された時も本機が使用され、見事に成功させています。戦闘機としては馬力不足ですでに第一線機としては旧式化していたため、ほどなく民間への払い下げにより軍務から退役しました。そうした民間で使われた中のひとつが、今回作成した"増田号"です。パイロット増田秀吉が操縦して1923年の飛行大会に出場した機体で、下翼に大きく"増田"の文字が書かれています。[Airfix]



Yokosho Ro Go ko seaplane "Ube go" / 1928

日本海軍黎明期の水上偵察機、横廠式ロ号甲型です。外国製、特に英国ショート社の影響はあるものの、日本人が設計した国産水偵として大きな成功を収めた初めての機体とも言えます。後に民間に払い下げられ、郵便飛行などで活躍しました。モデルは中島でライセンス生産したイスパノスイザ200hpエンジンを搭載したタイプで、"宇部号"と愛称が付けられています。[Choroszy]


>Gasude KR2 "Air Taxi" / 1935

英国のデハビランド社製フォックスモスのエンジンを国産空冷に換装したKR1型の改良型。製造を担当した東京瓦斯電気工業は、翼型を再設計し、日本的な丸みを帯びたフォルムの飛行機に作り変えました。羽田飛行場を本拠とする東京航空輸送会社では本機をエアタキシ―と称して、近距離の旅客輸送に使用しています。[AVI models conv..]


Type 3 trainer civil use / 1935

アブロ504の後継ぎとなる海軍の初歩練習機として、赤とんぼに搭乗する前の新米パイロットが最初に乗せられた機体です。扱いやすい軽量エンジンを搭載して、上翼を思い切って前進させることで、下翼との食い違いによる良好な失速特性を確保、胴体を長くとって縦安定にも気を使った設計です。日本學生航空連盟に所属の機体を作りました。日の丸と海と鷲をモチーフとしたマークが印象的です。[Choroszy]


Type 95 trainer civil use / 1938

海軍の93中練と並んで、陸軍の赤とんぼが、本機95式練習機です。この機体も多数が民間登録記号をつけて主に、パイロット養成に使用されました。大阪の八尾飛行場を本拠とする阪神飛行学校所属の機体を作ってみましたが、登録記号がJ-A...で始まっているのは、同飛行学校が1938年に逓信省に接収された後の機体であることを示しています。[RS Models]


Type 93 trainer civil use "Kuroshio" / 1939

海軍の中間練習機として多くのパイロットを育て、赤とんぼの愛称で有名となった93式練習機の民間型、当時の農商務省に所属し、魚群探知のための資材として使われた"黒潮号"です。単発の練習機としてはかなり大型で、後部座席には二人が並列で搭乗できるだけのスペースがありました。[LS] 


Kawanishi K6 "Harukaze"/ 1924

日本の航空産業が各地で産声を上げ始めたころ、兵庫県の川西機械製作所も航空部を設置し、本格的な航空機開発に乗り出しました。折から大阪毎日新聞社が企画した、日本一周飛行の機材として採用されたのが、本機です。1924年7月、大阪木津川飛行場を飛び立った"はるかぜ号"は、四国沖のルートから鹿児島、長崎、博多と、九州を巡った後、山陰から北陸、東北へと日本海側を北上。北海道の室蘭に達した後、太平洋岸を南下して、無事に約4400キロを飛行して日本最初の一周飛行を成功させました。所要日数は9日、実際の飛行時間は33時間50分ほどであったようです。この大飛行に使われたK6型は、ドイツ製マイバッハ・エンジンを搭載し、翼形は英国フェアリー社の模倣となっているなど、まだまだ日本オリジナルの設計とは言い難い面がありますが、その後の日本航空技術発展の一歩となったことは間違いありません。[Scratchbuilt]


Gasuden KR1 "Chidori-go"/ 1933

輸送機械メーカーとして鉄道車両や航空機エンジンなどを手掛けていた、東京瓦斯電気工業、通称"瓦斯電"の開発した、民間用小型旅客機です。オリジナルの機体を一から設計するノウハウはまだなかったため、英国のデハビランドDHフォックスモスをそのままコピー。自社開発の航空機エンジン"神風"を搭載しました。完成した機体は"千鳥号"と名付けられ民間輸送に供せられましたが、採算性にも問題があったと見え、その活躍期間は短いものでした。[AVI models.]


Aichi AB4 civil / 1932

日本海軍の夜間偵察機として試作された小型飛行艇です。残念ながら採用とならず、民間に払い下げられましたが、日本航空輸送研究所が3機を購入し瀬戸内航路に使用し人気を博しました。もともと開発された軍用型は下翼前縁部に近いところに操縦席がありましたが、民間型とすることで胴体前半は乗客用のキャビンとしたため、操縦席は前部銃座の位置まで前進して配置されています。エンジンの固定方法は写真だけでは良く分からず、中央部の支柱群もごちゃごちゃしていて設計としてこなれていない印象を受けます。また全長もなんとなく寸足らずで縦安定が悪そうです。この辺りが不採用となった要因のひとつかもしれませんが、愛知航空機は夜間偵察機の開発に熱心な海軍の意向を受け、後年98式水偵という洗練された機体を生み出しました。[Choroszy / resin conv.]


Mitsubishi Type10 "Hokkai No.1" / 1926

元々は海軍の空母搭載偵察機ですが、本機はその後民間への払い下げが行われ北海道の小樽新聞社の社機"北海1号"となった機体です。1926年に札幌の千歳飛行場が開港となった際、東京から飛来し同飛行場への着陸一番機となりました。現在でも千歳空港内にそのレプリカが展示されています。[Choroszy / resin conv.]


Stinson Reliant SR5 / 1936

戦前の読売新聞が米国から購入して使用した機体です。当時、米国ミシガン州の新興航空機メーカーStinson社は、中型旅客機などの開発で評判の良かった会社で、本機も1950年代の軽飛行機と言われてもおかしくないほどクリーンな形態です。新鋭報道機として期待を集めた読売機ですが、1936年に北海道で観測された日食の写真原稿を羽田に持ち帰る途中、悪天候のため宮城県で墜落して失われました。[Dekno Models / resin conv.]


AVRO504 / 1924

英国生まれのベストセラーである本機は、帝国海軍でも信頼性のある練習機として大量に採用されました。失速特性を考慮した大きな上下翼の食い違いや、転倒防止のためのスキッドなど、新米パイロットの事を良く考えた設計です。民間でも広く活用され日本の航空史でも重要な機体となったアブロ。派手なストライプの第一飛行学校の機体に仕上げてみました。[Airfix]


Nieuport81 / 1929

フランスを師と仰ぐ日本陸軍航空隊が採用したフランス製偵察機ですが、新機種への改編が進むのに合わせて退役した機材は民間に払い下げられ、黎明期の我が国民間航空の担い手となりました。作例は岩手県の盛岡飛行場をベースとした個人飛行家、伊東左内氏の愛機です。[Choroszy /resin]


Salmson 2A2 "J-BIRD" / 1936

第一次大戦の末期に出現した本機は、日本の航空史を語る上でも欠かせない機体です。まだ生まれたての陸軍航空隊に大量に採用され、川崎重工がライセンス生産、第一線の軍務から退いて以降は、多くが民間向けに転用となり、さまざまな分野で息長く活躍しました。今回仕上げたのも民間登録の一機。何とJ-BIRDという登録記号をもらった珍しい機体です。当時民間で設立された大日本義勇飛行会に所属するこのサルムソンは、胴体に書かれているように京橋飲食業組合の寄贈によるもののようです。[Choroszy resin conv.]


Mitsubishi "Ohtori" Asahi Newspaper Company / 1936

戦前の朝日新聞が使用した大型報道機。発注を受けた三菱は陸軍の93式双軽2型を大改造し、元の軍用型の武骨なスタイルを一新、長大な航続力を持つ機体に仕上げました。旧満州の新京や大連と東京を結ぶ長距離飛行を成功させた後、ハイライトとなったのは日本からタイへの親善飛行。"南進号"と名付けられた本機は、結果として軍部の東南アジアへの勢力拡大策の片棒をかつがされた訳です。[Choroszy resin conv.]


Ryan NYP Mainichi Newspaper Company / 1928

大西洋単独無着陸横断で一躍有名となったリンドバーグの愛機。その長大な航続距離に魅せられたのか、戦前の毎日新聞は、ライアン社の同型機を自社のラインアップに加えました。しかし冒険飛行のために設計された飛行機を新聞社の定常的な連絡業務に使いこなすことには、やはり無理があったようです。そのせいか、鳴り物入りで購入された本機の毎日での活躍は極めて短期間で終わりました。[RS models]


Fokker F7b 3M Dai-Nippon Koku / 1929

世界中で使われた名機フォッカー3Mは、戦前の我が国の民間航空を代表する翼でもありました。就航したのは東京ー福岡ー大連という、当時の長距離路線。目立った事故もなく、後継のDC2にバトンを渡すまでせっせと働きました。黄色い翼と胴体の青がノスタルジアをかきたてます。[Valom]


Tachikawa KS-1 / 1939

日本には戦前から"東海道新幹線"の計画がありました。当時の鉄道省がその敷設計画のために空からの測量の機材として立川飛行機に発注したのが本機です。すでに陸軍などで患者輸送機として使われていた石川島KKY2をベースに、エンジンや内装を大きく改良を施し、1939年5月に鉄道省に納入されました。可愛らしいクセのない飛行機ですが、機内は3人が作業できるようにゆったりとスペースを設け、専用の大型測量カメラも据付られています。[A model]


Airspeed Envoy / 1936

戦前の民間航空路で使用された英国生まれの中型旅客機です。初期の主力フォッカー機の旧式化に伴い、1930年代半ばから新型機として東京ー札幌路線に就航。その近代的なスタイルは人気を集めました。三菱が製造権を取得し、"ひなづる"の愛称で国内生産もされています。操縦席からの視界は良好で、これといった違和感のない素直なフォルムは、一見操縦の易しい飛行機だったのだろうな、と感じさせるのですが、意外にもグラウンドループなど独特の癖のある機体だったようです。見かけによらずジャジャ馬だった本機は3年ほどの現役として活躍した後、今度は正真正銘の国産機、中島AT2に後継を託したのでした。[RS Models]


Savoia S62 flying boat / 1932

いかにもイタリアンな雰囲気の粋なデザインが印象的な飛行艇です。柔らかな曲線の女性的とも言える艇体が機体後部へと細く絞られて、直線の鋭さを強調した垂直尾翼と合体。このファッション雑誌から抜け出したような飛行艇を、日本仕様に仕上げてみました。日本の民間記号を付けたイタリアの飛行艇など、おそらくこれが唯一の例じゃないでしょうか。戦前に1機が輸入され民間に払い下げられた後、その航続距離の長さを生かして、大阪からシャムまでの親善長距離飛行計画に使われる予定でしたが、諸般の事情で計画は中止となり、魚群探知など地味な用途でその役割を終えたようです。[Dekno models /resin]


Mitsubishi MC20 airliner / 1939

戦前の民間航空史の最後を飾る国産旅客機です。とは言え、時勢を反映して本機の原型機は陸軍航空隊の新鋭重爆として三菱が開発した97式重爆撃機。爆弾槽が不要で客室スペースを広く確保する必要から、翼の位置が胴体中ほどにある軍用型と異なり、低翼形式となっているため、ずいぶん雰囲気が違います。朝日新聞社でも採用され、"空飛ぶ編集室"と呼ばれて戦時報道などに活躍しました。[Planet Models /resin]


DeHavilland Pussmoth / 1931

戦前の民間航空史を語る上でかかせないのが、新聞社で使われた報道機。ファクスもインターネットもない時代に特ダネ写真を他社に先んじて掲載するためには、航空機による写真輸送がもっとも有効な手段でした。熾烈な特ダネ合戦に勝利するため、新聞各社はより優秀な航空機を入手しようと地道をあげることになります。朝日新聞社の眼鏡に適い採用された英国製の小型機が、このプスモス。一見華奢な小型機ですが、比較的高速で扱いやすく、航続距離も長いことから評価の高かった機体です。[Omega Models /resin]


Mitsubishi MS-1 / 1936

日本の戦前の民間機というのは、模型の世界ではかなり地味な分野だと思いますが、本機などはその中でもまたとびきり地味なアイテムではないかと思います。原型は90式機上作業練習機、"キレン"の愛称で長期に亘って旧海軍に愛用された練習機です。同機は一部が民間に払い下げられ、近距離旅客機として使われました。国産のジュピターエンジンを搭載したことで、機首部の雰囲気が少し違いますが、それ以外はほとんど実機も改造を加えられていません。[AZ Models]


Beechcraft 17 "Staggerwing"/1936

トラベルエア社から独立したウォルター・ビーチが設立したBeechcraft社の出世作とも言って良いこの17型は、空気力学上は禁じ手とされたスタガーウィング(逆食い違い翼)配置を持つことが最大の特徴。悪性の失速を引き起こしやすい上翼を下翼よりも後退させたレイアウトを敢えて採用することで、複葉機ながら操縦者に素晴らしい視界を与え、当時の各国現役戦闘機全てに勝る高速性能を実現しました。日本でも立川飛行機がライセンス生産しましたが、機構が複雑でメンテが難しく評判は芳しくなかったようです。[AZ Models]


Nieuport 24C /1924

フランスが航空先進国として自他ともに認めていた1920年代、航空の萌芽期であった日本では陸軍が中心となって当時のフランス製飛行機の輸入に努めました。陸軍が甲式3型戦として採用した本機は、第一線戦闘機としての役割を終えた後、毎日新聞に払い下げられ、高速報道機として再デヴューしたのです。[Roseplane / resin]


Nippi "Pou du Ciel" NH-1 /1936

ホームビルト機の草分け、フランス製の"空飛ぶしらみ(Pou du Ciel)"です。戦前の日本飛行機がライセンス生産し、朝日新聞社が購入。こちらは"ひばり"という可愛らしい名前をもらいました。素人でも操縦できる、との触れ込みでしたが、その実、安定性に難があって事故も続き、短期間しか使用されませんでしたが、そのユニークな姿は印象的です。[Aeroclub]


Seversky 2PA "Shiokaze" / 1939

仮想敵国アメリカの航空技術研究のため海軍が輸入したセバスキー社の戦闘機。寸詰まりの形態から想像出来るとおり、縦安定が悪く、高速はとりえだが運動性は日本人の繊細さには全くなじまぬ劣悪さ、ということで早々に民間に払い下げられました。引き受けた朝日新聞社では、高速報道機として使用しましたが、複雑な運動を要求されない民間使用のため、そのエンジンの信頼性によりパイロットには好評だったとのことです。[FE Resin/resin]


Supermarine Southampton "Kirin-Go" / 1936

戦前に麒麟麦酒がスポンサーとなって民間定期航空路線で活躍した飛行艇。もともとは1927年に日本海軍が研究用として、ただ1機英国から購入した当時の最新鋭飛行艇でした。海軍から民間に払い下げられ、日本飛行機で民間旅客機としての改造を施された本機は、スポンサーのロゴマークを機首に描き"麒麟号"と命名され、大阪と別府を結ぶ定期空路に就航。当時としては豪華なインテリアもあって一躍全国的な人気を博しました。 [Contrail / vacuform]


Nakajima Dai-11 Giyu-go / 1934

日本海軍の90式水偵の試作に応じて、中島が開発した純国産の水上機。残念ながら性能面で優越した米国ヴォート社のコルセア水偵に正式水偵の座は奪われ、本機は民間に払い下げられました。民間では羽田ー下田ー清水の間を運航していた、という、いわゆる日本におけるコミューター航空機のはしりのような存在です。パイロットの他に乗客席はわずか2名分。果たして営業的に成り立ったのでしょうか? [Choroszy / resin]


Heinkel He116 / 1938

戦前のルフトハンザが、アジアへの長距離航空路に就航させるため、ハインケル社に開発を依頼した輸送機。ルートとなるパミール高原を越えるため、高高度を飛べる能力が要求された本機は、ヒルト社が開発中の新型エンジンを搭載する予定でしたが、肝心のエンジン開発は失敗。やむなくすでに実用となっていたヒルト社の小馬力エンジン4基を積む形に設計変更されました。機体の大きさの割りに4発機となっているのは、そうした理由からです。製作された内の2機は日本が購入し、乃木号、東郷号と、日露戦争の英雄の名前を付けられ、日本満州間の郵便飛行に従事しました。 [Classic / resin]


Breguet19 "Kochikaze" /1925

大航空時代の幕開けとなった1920年代に朝日新聞社が企画を発表した欧州訪問飛行。フランス製のブレゲー19型2機で、シベリア経由、パリ・ローマを目指す計画は日本国民の熱狂的な支持を受け、2機はそれぞれ、東風(こちかぜ)、初風と名づけられます。7月25日に代々木練兵場を飛び立った両機は、およそ3ヶ月をかけて目的地のローマに到着。日本人による初の欧州訪問飛行を見事に成功させました。この冒険に使われたブレゲー19型は、当時の航空先進国フランスが生んだ傑作機で、信頼性の高いイスパノエンジンを搭載した頑丈な機体構造は、同時代の他機に比べて少なくとも5年は進んでいたのではないかと思われます。 [Hitkit]


Breda33 /1932

現代にも通じる軽快でクリーンなフォルムのスポーツ機。戦前の毎日新聞がライバル朝日新聞との熾烈な特ダネ競争に打ち勝とうと導入した、初めてのイタリア製航空機です。イタリア有数の重工メーカーであったブレダ社はあらゆる種類の兵器を製造していますが、航空機に関しても多種多様な機種を設計生産しました。しかし不思議と、軍用機としての成功作は皆無で、民間機としての本機が航空部門では最大のヒット作かもしれません。直線的なボディと楕円形の優雅な翼形を組み合わせたバランスの取れた美しさが、この機体の特徴です。 [Dujin /resin]


Lockheed Altair / 1935

ヴェガ(織女星)、シリウス(天狼星)に続くロッキード社の星シリーズ第3弾が、このアルテア(牽牛星) 。基本的には前作シリウスに引込脚を採用した発展型ですが、それまでに培われたロッキード機の高性能に関する評判からヒットし、世界中に販売されました。日本では毎日新聞社が報道機として購入し、その高速性能でライバル朝日を凌駕する活躍を示しました。東京からマニラへの親善飛行は本機のハイライトのひとつです。 [LF Models /resin]


SAML Dornier Wal /1926

一世を風靡したドルニエ博士の飛行艇は、世界各国でライセンス生産されましたが、ライセンスを買ったイタリアのSAML社は客室と操縦席のレイアウトに手を加えたため、随分オリジナルとは違った印象の機体を作り上げました。戦前の川崎航空機が購入して、その関係会社であった日本航空(現在のJALとは別会社)の瀬戸内航路に就航させたのが、このSAML製のWal飛行艇です。客席を機首に配置し、操縦席を後退させたため、機首上面が非常にすっきりとしたシルエットとなり、愛称のWal(クジラ)のイメージがぴったりの機体です。 [Airmodel /vacuform (conv.)]


Dornier Merkur / 1928

1920年代に全金属応力外皮という、その後の航空技術史の方向性を決定付けた機体構造を編み出したドイツ人設計者達の中で最も有名だったのがクラウディウス・ドルニエ博士です。そのドルニエ博士の設計になるコメット旅客機に改良を加えたのが、このメルクール(水星または商業の神)。
日本でも1機が輸入され、朝日新聞社で長く使われたあと、陸軍に徴用され病院機として前線で活躍しました。その後奉天の千代田公園に終戦まで公開展示されていたようですが、終戦時に惜しくも焼却処分されたと思われます。おそらく本家ドイツにも現存する機体は残っていないことを思うと残念な話です。
[Luedmann /resin]


ki11Ki-11 Communication Plane / 1935

陸軍の次期戦闘機として、中島飛行機が開発した野心作。明らかにボーイングP26の影響を受けた単葉形式で、胴体と固定脚からのワイヤで主翼を支えるスタイルは、従来の複葉戦闘機を凌駕する高速性能を実現しました。反面、これまでの格闘性能重視の思想に凝り固まった陸軍のパイロットにとっては、あまりにも革新的過ぎて違和感を感じさせたのでしょう。結局陸軍は川崎の提出した複葉形式を、95式戦闘機として採用。不合格になった本機は民間に払い下げ。その高速性能に目をつけた朝日新聞社が、報道機として活用することになったのです。 [Chroszy /resin]


Fokker Super Universal / 1929

戦前の民間航空を代表するノスタルジア溢れる旅客機です。日本航空が初めて、東京-大阪-福岡路線を開設した昭和4年に使用機材として導入したのが、この飛行機。主翼は全木製、胴体は鋼管骨組みに羽布張りという古典的な構造ですが、どんなエンジンでも換装可能な柔軟な設計と、6人収容のキャビンによって、商業航空史上最初のベストセラー旅客機となりました。続いて発表となった3発エンジン型と共に、世界中で使用され、フォッカーの名は一時、旅客機の代名詞になったのです。 [VLE Models /vacuform (conv.)]


R3Ishikawashima R3 / 1931

民間航空機の分野というと、まだ新聞社の報道機か、ようやく芽生えたばかりの少数機による定期旅客事業に限られていた当時の日本で、自社開発でこうした軽飛行機の分野を開拓したメーカーの心意気が伝わってきます。合計で5機が製造されたようですが、その中の一機は日本学生航空連盟の所有となり、なんと欧州までの親善飛行を決行。"青年日本号"という当時ならではのセンスのネーミングを与えられ、ローマまで95日かけて無事に到達した、という快記録を作りました。 [Choroszy /resin]


KokenKoken Long-range Research Aircraft / 1938

欧米の水準にようやく追いついた日本航空技術力を世界にアピールした機体。1938年5月に木更津を飛び立った本機は、周回コースを2日半に亘って飛行を続け、フランスのブレリオ110機が持っていた世界記録を破る、11,651kmのレコードをうちたてました。現在に至るまで、日本が作った航空分野での世界記録はこれだけ。零戦並みとはいかなくても、もっと有名になっても不思議ではない機体ですが。 [Mechadol /resin]


dc2Douglas DC2 / 1934

出世作、ワールドクルーザーの世界一周で勝ち得た名声を、今ひとつ生かしきれていなかったダグラス社が、世界最大の旅客機メーカーとして一大飛躍するきっかけとなった、名機DC3の原型となった機体。全金属性低翼単葉、居住性の高いモノコック胴体・信頼性に溢れた大馬力エンジン。飛躍的な低コストと高い安全性を保証した本機の出現によって、商業航空は限りなく一般大衆のものとなっていったのです。モデルは、戦前の日本航空で使われた新高号。 [MPM]


kisaragiTachikawa Kisaragi / 1939

もともとは陸軍の戦術偵察機として開発された機体を、朝日新聞社が報道機として採用し、"きさらぎ号"と命名したのが本機。当時、新聞各社は、スクープを多社に先駆けて報道するための熾烈な競争を繰り広げており、航空機材の優劣がもろに結果となって顕われる所から、先進国の高価な新鋭機を導入する傾向が強かったのですが、朝日だけは、国産機路線を頑なに守っていました。秘密主義の権化である軍部、特に陸軍も、こうした朝日の方針を高く評価して、軍用機の民間転用を許していたようです。 [Fujimi]


hansa Hansa Brandenburg Sea Plane / 1922

第一次大戦が終わってわが帝国海軍も本格的な海軍航空隊の編成を考えますが、各国の水上偵察機を採用のために色々調べてみたら、なかなか要求仕様に合う機種がなく、結局敗戦国ドイツの本機が最も優れていた、ということでライセンス生産されたエピソードを持っています。海軍退役後も民間に払い下げられて、魚群探索などの用途に使われたとか。モデルはその民間型です。 [Toko (conv.)]


taifun Messerschmitt Bf108 Taifun / 1936

新生ドイツ空軍の鋭利な飛剣、Bf109戦闘機の母体となったメッサーシュミット教授の出世作。教授の性格を彷彿とさせるような、わずかの余裕さえも削ぎ落とされた冷徹なフォルムは、いかにもドイツ民族の造った機械といった趣。ただし後継者のBf109と違って本機は商業連絡機であり、機首付近の柔らかさが救いです。機体は読売新聞社機で、1936年のベルリン・オリンピックを記念した尾翼のマークにご注目。 [Heller]



nippon Mitsubishi Nippon / 1939

日本機として始めて世界一周を成し遂げた栄光の翼。原型は海軍の中型陸上攻撃機ですが、細くすらりとしたボディーが印象的で、いかにも高性能を予感させる流麗なシルエット が素晴らしい。当時の日本航空機設計陣の空力センスが世界水準に達していたことを窺わせる一作です。 [LS]



kamikazeMitsubishi Kamikaze / 1937

日本の航空技術が世界的水準に達したことを示した画期的機体です。本機によるロンドンまでの記録的飛行の頃を境に、平和な翼の時代はそろそろ終わりを告げようとしていました。本機はもともと高速偵察機として開発されたため風防を低くするなど空気抵抗を減らす工夫の後が窺えますが、反面、着陸時にはほとんど前方視界が無くなり、パイロット泣かせの機体だったようです。 [Mania]

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