新規の展示アイテムです。
This page introduces the newcomers of the museum.




Nakajima AT2 airliner
米国で大成功となったダグラスDC2を参考に、国産初の本格的な旅客機として中島飛行機が開発した機体です。降着装置を始め多くの機構がDC2のものをサイズダウンして採用されましたが、外観上もっとも独創的で目立つのは下部が後退した不思議な形の操縦席風防。あまり他に類を見ない設計ですが、荒天時の視界改善には効果があったとされています。大日本空輸では採用後、満州と日本本土を結ぶ定期路線に就航、その第一号機は北関東の名峰にちなみ"榛名"と命名されました。良好な性能が陸軍にも注目され97式輸送機として民間型よりもはるかに多くが生産されています。
せめて軍用型の97式輸送機でもキット化されていれば改造も容易だったのですが、1/72スケールでかつてキット化されたことのない不遇なアイテムです。今回MPM社のダグラスDC2の胴体部、翼部を切り貼りして、ほぼスクラッチビルド並みの作業で完成させました。




Mitsubishi T1.2 Mainichi newspaper company
海軍から払い下げられた往年の名艦攻13年式艦上攻撃機は、退役後三菱で民間旅客機として使用すべくいくつかの改造を加えられました。しかし操縦席からの前方視界が良くないため旅客機としての安全性に難色があり計画は半ばで頓挫。その後欠点となる前方視界改善のため操縦席を翼上前方に配置し,乗客4人を収容するキャビンを設けた改造機が作られ、毎日新聞社機ではこれを社有機として使用しました。三張間の翼組はそのままですが、これだけ胴体形状が様変わりしてしまうと、もはや原型の13年式艦攻の面影はほとんど感じることができません。
モデルは13年式艦攻のレジンキットから大改造して仕上げました。




AVRO504
海軍の練習機として英国から輸入され長期に亘って愛用された本機は、1930年代には大量に民間に払下げが行われました。そのうちの一機は長野県小布施の老舗菓子店二葉堂のビラ巻き宣伝飛行に使われ人気を博しました。とある新聞記事で10年以上前にそうしたエピソードを読んで以来、いつか作ってみようと思っていたのが今回のモデルです。何故か胴体に映画会社松竹のロゴが描かれています。




Nakajima P1 mailplane
海軍が90式水偵として採用ライセンス生産した、米国のコルセア水上機をベースに中島が開発した郵便機です。エンジンを英国のジュピター空冷に換装、上翼をシンプルな直線翼に改めた本機は、郵便機として良好な性能を発揮し、民間で活躍しました。夜間での運用も考慮し下翼に大きな着陸灯が吊り下がっています。モデルは九州逓信局が使用した珍しい登録記号(J-KUCU)の機体。実機同様レジンキットのコルセアからの改造で仕上げました。




Fokker IIV 3m "Josephine Ford"
米国海軍少将バードが北極点への到達を目指した探検に使用した飛行機です。探検隊のスポンサーが自動車王ヘンリーフォードの息子エドセルであったことから、このフォッカー三発機にはエドセルの娘で当時三歳であったジョセフィンの名前が与えられました。バード探検隊は1926年5月に北極点到達に成功。使用された本機もベストセラーとなり世界中の航空路線で活躍することになります。機体中に描かれた"FOKKER"の名前がそのプロモーションに大きな貢献を果たしたであろう事は想像に難くありません。実物はデトロイトのフォード博物館に展示されています。
作成は市販のキットにエンジン周りの改造を加え、スキーを履かせて仕上げました。




Caproni Ca161 bis
1930年代は、各国の航空産業が、より速くより遠くへを目指して凌ぎを削った時代でした。そしてもう一つの挑戦が、より高く、つまり高高度到達記録を争う競争だったのです。このレースの主役は英国とイタリア。1936年に英国のブリストル138型機によって達成された高度記録15,440mを翌年に破ったのが本機の最初の型であるイタリアのCaproni161型機。そのわずか一か月後には英国が再度ブリストル機で記録を塗り替えるという熾烈な競争が繰り返されました。この状況を再度破ったのが、今回スクラッチビルドで製作したCaproni161bisです。1938年に高度17,083mに到達。この記録は現在でも複葉機による世界高高度記録として維持されています。これだけの高さのためパイロットは与圧された特殊スーツを着用し、まるで宇宙飛行士のような金属製ヘルメットを被って高度に挑戦したのでした。
モデルはフルスクラッチビルドでプロペラやエンジンなどの部品は他からの流用です。ついでに操縦士マリオ・ペッチ中佐のフィギュアも作りました。



Caudron C448 Goeland "Paris-Saigon racer"
フランスが当時自国の植民地であったヴェトナムまでの航空路確立のために開催した、1936年エアレースの参加機です。実はこのレースは前年の1935年に第一回が開催されましたが、シムーン単葉機で参加したサンテグジュペリ(星の王子様の作者として有名)がリビア砂漠でクラッシュリタイアしたことは知られているものの、レース結果については少なくとも日本のネット検索では不明でした。このレースはパリとサイゴンの間を往復して起点のパリに戻ってくる、という当時の航空技術のほぼ限界に近いマラソンコースで、おそらくコースの翔破に成功した飛行機は無かったものと思われます。その証拠に翌年の第二回レースにエントリーしたのは本機を含めてわずか3機、それも全て地元フランスだけ、という低調ぶりでした。そしてこの年のレース結果についても、実際に開催されたのかのか、も含めて不明です。本機のGoelandという愛称は、フランス語でカモメのことですが、手ごろな中型旅客機としてエアフランスを始め、欧州の航空会社でかなり使われた機体です。胴体に大描きされた当時人気の漫画キャラクターがアクセントになっています。



Handley Page W8b airliner
英国初の戦略爆撃機を開発して、巨人機を得意とする航空機メーカーに成長したHandley Page社が、第一次大戦の終了直後に発表した大型旅客機です。本機は最初から民間機として開発されたため、客室は広く、世界で初めてキャビン内に化粧室が設置されました。英国のインペリアル航空で多くの欧州路線に就航した他、ベルギーのSABENA航空でも使用されています。本機の生涯は意外にも長く、三発型を含む様々な民間型が作られた他、英空軍にもハイナイディ、ハイデラバッドという爆撃機、軍用輸送機として納入され、旅客機として最後に引退したのは1931年のことでした。無骨ながらも堅牢な、いかにも英国人の作った飛行機という気がします。
古いコントレール社の軍用型ヴァキュームキットからの改造で製作しました。



CANT Z506 land-based version
イタリアの東の国境に近いモンファルコ―ネにあった造船メーカーCANT社は、1920年代から水上機の開発生産に乗り出しました。1930年代の中頃、鬼才と謳われた設計技師フィリッポザパータがCANT社のために作り上げた水上旅客機が本機Z506です。その流麗なデザインから生み出された機体は、1935年にデビューするや、高度、速度、距離の世界記録を新たに10個も塗り替えるという優秀性を示し、当時のイタリア航空でも14機が定期路線に就航しています。今回、その高い性能が注目され南米への長距離航空路開拓のために唯一機、陸上型に改造された機体を再現してみました。
フォルムの美しさもさることながら、主翼に施された赤と銀の翼の塗装が、さすがにイタリアを感じさせる粋なデザインです。

Handley Page 0/400 airliner
第一次大戦中に敵国ドイツのツエッペリン飛行船やゴータ重爆のロンドン空襲で大いに苦渋を舐めた英国が、満を持して開発した、当時としては超大型の元祖戦略爆撃機。実戦配備はドイツの敗北が見えてきた1918年のことだったので、それほどの威力を発揮することもなく終戦を迎えました。平和が戻ってきたため、16の乗客座席を持つ旅客機に改造され、ヴェルサイユ講和条約の交渉に向かう政府要人をロンドンからパリまで、せっせと運びました。
老舗Airfix社が脂の乗り切った時代の作品なので、ディテールの再現は的確で、古いキットとは言え組み立てには苦労しませんが、今回民間旅客機型に改造したため、完成までにはかなり時間がかかりました。




Farman220 "Le Centaure"
フランス機らしからぬ直線的で武骨なスタイルの巨人機。第一次大戦でドイツが実用化した大型戦略爆撃機に刺激されたフランスが、戦後に開発した4発重爆です。設計開始が1925年と古く、開発に膨大な時間をかけたために空軍に本格的に就役した1930年代後半には、すでに旧式化してどうにもならない機体でした。それでも他に代替できる機種もなく、そのまま第二次大戦に突入してあっという間のフランス敗戦に、活躍の場は無かったのでした。しかし長大な翼と左右にタンデム配置された計4基のエンジンが生み出す長い航続力が認められ、1930年代にはエアフランスが南大西洋路線の長距離郵便機として採用して、フランス本国と南米アルゼンチンの間を何度か行き来しています。それが今回作成した Le Centaure(ケンタウロス号)です。
市販の軍用型ヴァキュームキットからの改造ですが、液冷イスパノエンジンは自作、機首部の大改造もあって製作は大仕事になりました。





Kawanishi K6 "Harukaze"
日本の航空産業が各地で産声を上げ始めたころ、兵庫県の川西機械製作所も航空部を設置し、本格的な航空機開発に乗り出しました。折から大阪毎日新聞社が企画した、日本一周飛行の機材として採用されたのが、本機です。1924年7月、大阪木津川飛行場を飛び立った"はるかぜ号"は、四国沖のルートから鹿児島、長崎、博多と、九州を巡った後、山陰から北陸、東北へと日本海側を北上。北海道の室蘭に達した後、太平洋岸を南下して、無事に約4400キロを飛行して日本最初の一周飛行を成功させました。所要日数は9日、実際の飛行時間は33時間50分ほどであったようです。この大飛行に使われたK6型は、ドイツ製マイバッハ・エンジンを搭載し、翼形は英国フェアリー社の模倣となっているなど、まだまだ日本オリジナルの設計とは言い難い面がありますが、その後の日本航空技術発展の一歩となったことは間違いありません。
もちろん市販キットはありませんので、一部パーツを流用した以外はスクラッチビルドです。





Lioret et Olivier 213
1920年代後半にデヴューした大型旅客機。ファルマン・ゴリアテの後継者としてドル箱のパリ・ロンドン路線に就航し、世界で初めて機内で本格的な温かい食事を提供したことから"空飛ぶレストラン"の愛称を与えられました。元々は空軍の夜間爆撃機として開発されたLeO20の設計をベースに、メインキャビンに乗客16名、機首にも追加の座席を設けることで最大18名まで運べるよう、胴体を再設計して大きく膨らましており、クジラを彷彿とさせる当時としては世界最大級の巨人機と言えます。
もちろん市販のキットはありませんので製作はほぼフルスクラッチ。幸いレジン製で発売されていたLeO257軍用型のキットが手元にありましたので、作業迅速化のため主翼、水平尾翼、垂直尾翼はそのパーツを切り揃えてLeO213のサイズに修正しました。胴体部は透明プラ板を切り出して張り合わせで再現しています。  


Bernard 80GR "L'Oiseau Tango"
1920ー30年代の航空界をリードしたフランスが長距離飛行の世界記録を次々に塗り替えていた時期、その最後の光芒を放った名機がこのベルナール80です。1930年に初飛行した本機は、珠玉の名エンジンであるイスパノスイザ12気筒V型を搭載したシンプルでクリーンな単葉機でした。操縦席は上下に可動し、空気抵抗の軽減のために離着陸の時以外はパイロットは完全に胴体内に隠れる形で操縦が行えました。そのため視界を確保するための大きな三角窓が操縦席左右に設置されています。華やかなオレンジレッドを全身にまとったこの機体は、名パイロット、メルモーズの操縦により1931年に8800キロ無着陸飛行という周回世界記録を打ち立てています。我が国の航研機の設計にも多大な影響を与えたと思われる、フランス航空技術の清華をモデライズしてみました。
胴体と主翼はそれぞれ、旧いフロッグのJu88、エアフィックスのウェリントンから転用。機首エンジン部と特徴的なスパッツの主脚および胴体下のラジエータ部はエポキシパテで作り出しています。


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