+++ My history with airplane models +++

私の模型史




wright 始まりは唐突にwright


それは一冊の本から始まったようです。
近所の書店で偶然見つけたそのB5版の小さな本の表紙には、"プラモガイド"の文字がありました。


1963年の秋、私は九州の一地方都市に住む小学生でしたが、すでに子供達、特に男の子の間では、プラスティックモデルは最も手軽で人気のあるおもちゃでした。私の年代の男性であれば、このころ一度や二度は、プラスティックモデルを作った記憶を必ず持っていることでしょう。その本と出会うまでの私は、あの頃どこにでもいる男の子達と同じように、遊びで模型を作っては、飽きると壊したり燃やしたりといった、ごく普通の子供だったのです。


その日、書店で見つけた"プラモガイド"の表紙は想像もできないほど美しい仕上がりの完成模型のカラー写真でした。パラパラとめくったその本の中身に、私はたちまち魅了されました。内容はその年に発表となった内外の飛行機モデルを各機種ごとに紹介・批評し、組立て時の注意事項、塗装ガイド、改造プランなどを簡潔にまとめたものでした。 その当時の小学生の小遣いからは決して安くない値段の本でしたが、気が付いたときには、その本を抱きかかえるようにして書店のレジに並んだ私がいたのです。

それからの私は、はっきりと飛行機模型に対する姿勢が変わりました。プラモデルは単なる玩具ではない。友人達が30分やそこらでバタバタと組み立ててしまい、組み上がると塗装もせずに遊んで、壊れても平気。そうではなくて、プラモデルというのは立派な大人の趣味になるもので、現にあの本の中には、大人達が作った素晴らしい出来栄えのモデルがたくさん紹介されているではないか。自分もなんとか、きちんと工作され、きれいに塗装された、ああしたモデルを作れるようになりたい。
しかし地方の一小学生である私には、限られた小遣いの中で買えるキットも限られてくるし、第一本格的に塗装など始めるとなると、塗料を一揃い買い集めるだけでも、大変な出費。それに加えて資料類。その頃の模型ブームを反映して、プラファン(後にプラホビー)という月刊誌の新聞のような資料が発売になっていましたが、少し遅れて本格的専門誌としてモデルアートも刊行され、こうした資料類の購入も欠かせない。子供ながらに私も、この趣味を本格的に広げていくには経済的な制約を考えて、何らかの歯止めを考えないわけにはいかないなあ、と考え込んだものです。


私の解決策は、まずコレクションの範囲をプロペラ機に限ることからでした。どうもジェット機のような鋭角的なシルエットの飛行機は、形が単純過ぎたのか、どれも同じに見えて、模型としての魅力を感じなかったからです。それから、プラモガイドなどで酷評されているような、出来の悪いモデルには手を出さないこと。そしてコレクションのスケールをいずれかに統一して、他のスケールは諦めること、でした。
私の選んだのは、当時最もポピュラーだった、1/72スケール。一見半端なスケールに思えますが、プラスティックモデル発祥の地、英国で戦前から統一規格として発達したもので、すでに世界中のメーカーによって認められたスケールでした。ちなみに1/72とは、人間の背の高さ(約6フィート)を1インチに置き換えたスケールです。


こうして私のおそらくは一生涯続くであろうモデラー人生が始まりました。




zeroひのまる少年誕生zero

飛行機モデルの中で、当時最も人気のあったのは旧帝国陸海軍機。今でも不思議でならないのですが、終戦からまだ20年そこそこ。人々の心に戦争の実体験が依然として色濃く残っている、そんな時代にどうしてあんなミリタリーブームが起こったのでしょう。
とにかく当時は、日本の模型メーカーという模型メーカーが、すべて軍用機を発売。あらゆる少年漫画誌も、争うように第二次大戦中の軍用機のカラー三面図を掲載する時代でした。 当時もっとも人気の高かったモデルアイテムは、旧海軍の零戦です。とにかく零戦さえ発売すれば必ず売れる時代だったのです。1/72クラスで一番売れていたのは、LSの21型と52型(正確には1/75という一回り小さなスケールでしたが、プロポーションの良いキットでした。)ニチモから1/70というスケールでやはり21型が出ており、模型誌の中にはこちらの方がLS製よりもデッサンが実物に近いと評価する声もありました。ニチモはその後1/48スケールに力をいれたため、1/72クラスの発売機種はそれほど多くありません。日本機では雷電と96艦戦という、当時としては珍しい機種を発売しています。特に96艦戦は表面の沈頭鋲の再現やデッサンも素晴らしく、当時の傑作モデルと言えるのではないでしょうか。


この頃の私の日本機コレクションの状況をまとめると以下のようになります。まだ長谷川模型は本格的にこのジャンルには進出しておらず、発売されるアイテムは比較的有名な戦闘機に偏りがち。ちょっとマイナーなアイテムになると、デッサンもかなり怪しげなモデルが多く、不満の残るキットがたくさんありました。
〔海軍機〕
零戦;LS21型、LS52型(いずれも1/75)、タミヤ32型、
2式水戦;LS(1/75)
紫電改;ニット−(1/75)
雷電;タミヤ
96艦戦;ニチモ
97艦攻;ニット−(1/75)
震電;タミヤ
彗星艦爆;LS(1/75)
零観;長谷川(1/75)
晴嵐;アオシマ
紫雲;アオシマ

〔陸軍機〕
隼;LS1型、LS2型(いずれも1/75)
鍾軌;タミヤ
飛燕;ニチモ(1/70)
疾風;タミヤ


こうして眺めてみると、陸軍機に比べて海軍機の人気が圧倒的に高かったことが判ります。それに全て単発の小型機。実際のところ、エンジンが2つ以上付いた大型機を1/72で真面目に作ろうというメーカーはまだ現われていなかったのです。航空ファンなどの専門誌を繰り返し読みながら、いつかそうしたまだ日の当たらぬ飛行機達がキット化される日を、一体何度夢に見たことでしょう。


プラモガイドは1964年、そして1965年にも毎年一冊が刊行されました。
1965年ヴァージョンはページ数も増え、それまでの一機一ページの新製品紹介形式から大きく内容が変わっていました。ライト兄弟機から始まって最新のジェット機まで、古今東西の国産・外国キットを全て網羅的に紹介する記事、各国軍用機の塗装パターンの紹介、製作・改造のヒントさらには、上手な完成模型の写真撮影のアドバイスまで。いっぱしのモデラー少年を気取っていた私は、この1965年版を入手したことで、いよいよ深く、模型の世界へのめり込んで行くことになります。



doper1913マニアの世界へまっしぐらdoper1913

丁度この頃、私の住む地方都市にも少しずつ外国製のキットが店頭で見受けられるようになりました。私の記憶の中で最初に見つけた1/72の外国製飛行機は、確かレベル社のスパッド13です。一箱100円が常識だった、このクラスのキットにしては高価な、240円もするキットだったと思いますが、もの珍しさに抗しきれず、一体どの時代のどこの国の飛行機かも知らないまま、買ってしまいました。家に帰って箱を最初に開けたときの驚き。当たり前のことですが、説明書が英語。オリーブ色をしたパーツは、国産では普通の、ビニール袋になど入っておらず、そのままバラリと箱の中に散乱しているだけ。しかし手にとって見ると、その何と精密なこと!当時の輸入キットに共通の、箱を開けた時独特のクスリっぽい匂いと共に、私にとって初めての舶来キットの印象は、今も記憶に深く刻まれています。


エアフィックスやフロッグなど英国の模型メーカーが、すでに膨大な種類の1/72飛行機モデルを発売していることは、知っていましたが、私の住む街では、一切手に入りませんでした。専門誌を繰り返し読み返しては、まだ見ぬモデル達に焦がれる日々。もう、この頃の私は、とにかくスケールが1/72に統一されていれば、プロペラの付いた飛行機であれば何でも(経済的に可能な範囲で)買い漁る、飛行機マニアの道にどっぷりと浸かるようになっていました。
1965年、小学6年生の秋、私は初めて北九州へのバス旅行のチャンスを掴みます。事前に模型誌の広告を入念にチェックして北九州市内の模型店の住所をポケットに忍ばせ、これまでの貯金を全て使い切る覚悟で。ひとりで住所を頼りに店を探し歩き、ようやくたどり着いた小さな模型店で、私は気絶しそうな思いをすることになります。これまで繰り返し夢見た、あの専門誌でしか見たことの無いモデル達が、今自分の目の前に並んでいる! エアフィックスのアルバトロスD5,RE8、フロッグのフォッカーD21、マッキMC202、ブリストル138、レベルのニューポール17、Me109,ハリケーン。今でも、この日に何を買ったか、全てをはっきりと覚えています。夢が叶いあこがれのモデルを手にした喜びと、貯金を使い果たしたことで、両親にこっぴどく叱られるのではないか、というわずかな後悔の痛みと共に。


中学校に入学しても、私の模型熱は冷めることはありませんでした。当時、飛行機模型は世界的な流行の時代だったのでしょう。内外の模型メーカーは毎月、新製品を次から次へと発表し続けました。
この頃もっとも興味を持って集めていたのは、やはり旧日本軍用機です。待望の大型機の分野では、まず老舗のLSが飛龍、靖国、キ109(いずれも1/75)を発売。コックピットの内部まで再現した超精密キットを生まれて初めて眼にした、その驚き!そして本格的に1/72飛行機分野の開発を開始した長谷川製作所が、連山、2式大艇を発表します。LSも負けじ、と96式陸攻とその民間型を初の1/72スケールで発売。一気に日本機分野のキットは充実に向かいました。しかし、それでも例えば、英国のエアフィックス社のように、自国の飛行機をくまなく模型化するのが使命と心得ているメーカーと比較すると、まだまだ日本メーカーは遅れていました。
例えば、99艦爆、100式司偵を1/72で発売している日本メーカーはどこにも無く、この両アイテムについては、世界で唯一エアフィックス社の甘いデッサンのキットが存在しているだけでした。あの出来の良さで評判だったレベル社の1/72シリーズの中でさえ、こと日本機になると、どれもこれも微妙にデッサンの狂った、実機の繊細なシルエットの再現に失敗したモデルばかりでした。零戦、隼、飛燕、疾風すべて、どうも購入に二の足を踏むような駄作キットだったのです。


こうした実情に発奮してか、この頃日本で始めてのガレージキットメーカーが登場します。その名もズバリ、"マニア社"というキットメーカーが通信販売限定で、97式戦、97司偵を発表したのです。今でも、一体どんな人達がこういう壮挙を行ったのかは全く知りませんが、あまりにも発売アイテムの少ない日本機の現状に歯噛みしていた私にとっては、高価ではあっても、注文せずにはおれないほど魅力的な知らせでした。早速、現金書留で送金し、配達までの2週間、待ちどうしくて毎日のように郵便受けを覗き込んでいたことを思い出します。送られてきたキットは期待を裏切らない出来で、おおいに満足したものです。その後の発売予定には、97艦攻、99軍偵などの情報もあり、ますます期待は膨らんだのですが、やはり資金的に立ち行かなくなったのか、マニア社の名前は何時の間にか、聴かれなくなってしまいました。これらのアイテムが長谷川ブランドで発売されるのは、ずっと後のことになります。
あと、この頃のことで思い出すのは、本腰を入れて1/72を開発する勢いを示したLSが、今後の発売予定のアイテムを一気に発表したことでした。あらゆる専門誌に、93式中練、97司偵、新司偵、一式陸攻、屠龍、95式戦などがイラスト入りの広告で登場し、おおいに胸をおどらせたものです。発売時期についての記述は一切なく、今か今かと待っているうちに、なんとなく広告も消え、その内にほとんど忘れてしまったのですが、上述の前半3アイテムはずっと後になって(おそらく最初の発表から、6〜7年近く経っていたと思います)発売されました。後の3アイテムは結局幻のキットとなってしまった訳です。


開発に時間がかかって市場投入タイミングを逃がしたLSとは違って、長谷川は60年代後半から70年代前半の飛行機ブームに乗って、急ピッチで新モデルを市場に送りつづけました。さらに英国の老舗フロッグ社との相互市場提携により、一気に長谷川の製品ラインアップは拡大し、"ヒコウキの長谷川"の名前は世界に拡がります。
私にとっては、入手の困難なフロッグ社の製品が長谷川ブランドで安く簡単に手に入るようになったことは、大変有難いことでした。ヴィッカース・ヴィミー、ウエストランド・ウォーラス、ブラックバーン・シャーク、フェアリー・バーラクーダなど、これまで馴染みのない、英国機を作っているうちに、この時代の航空機についての知識も増え、結果としてコレクションの範囲も広がり、そうしたことでいっぱしのマニアの世界に足を踏み入れた感覚の何とも言えない楽しさ。
もうひとつ嬉しかったのは、出来は素晴らしいが高価だったレベル社の1/72シリーズが、グンゼ産業との提携で、国内キット並みの100円で手に入るようになったことです。
3歳年上の私の兄は、このレベル社の第一次大戦機がお気に入りで、よく作っていました。特にドイツ機の独特な亀の子パターンの塗装が得意で、比較的不器用だった私は、兄が私に作ってくれたフォッカーD7の塗装の見事さに思わず見とれたものです。その兄のフォッカーは、今でも、私のコレクションの中に大事に残されています。



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エアフィックス社の製品は相変わらず入手が難しかったのですが、"永大産業"のブランドで、一部のアイテムが私の住む街でも、ちらほらと店頭に並ぶようになりました。レベルと長谷川を加えると、もう買いたい製品が次から次にと、毎月発表されます。
小遣いのほとんどは、模型につぎ込まれ、いよいよ資金的には限界に近づきましたが、模型店に顔を出す度に、"今日はどんな新製品と出会えるんだろう。"とドキドキの日々。今から思うと、なんて幸せな時代であったことか。


モデルガイドは変わらず、年一回発行されました。1966年は米国陸海軍機特集。67年はドイツ機、68年は日本機の特集でした。表紙の土色のカモフラージュを施した鍾軌の完成写真が新鮮でした。これまで、日本機の塗色は陸も海もグリーン系だけだと思っていましたから。
塗装と言えば、模型用塗料もこの頃、次第に種類が増えていったようです。
もともとは原色系のみ発売されており、自分で調合して、"らしい色"をでっちあげていたものですが、徐々に専門色が加わっていき、陸軍機上面色とか海軍機下面色とか確か"ピラー"というメーカーが市販を始めていたものだと思いますが、重宝して愛用した物です。
あと塗装で悩んだのが、ドイツ機のぼかし迷彩を、筆塗りでどう表現するか。ある模型雑誌には、"まず下地塗装をラッカー系塗料で塗る。乾いてからエナメル系塗料のシンナーを全面に塗って、薄めた塗料をポツポツと斑点状に滲ませていく。"などというテクニックが紹介されていました。しかし私の住む街では、エナメル系の塗料(英国製のハンブロールが最も有名)そのものが入手できず、悔しい思いをしたものです。
もうひとつ塗装の思い出と言えば、"つや消し"の問題です。模型の場合、そのまま塗装すると、テラテラとしたつやが出てしまって、おもちゃっぽくなってしまう。これを落ち着いた仕上がりにするためには、塗料のつやを消すことが大事なのです。当時の解決法は、炭酸マグネシウム。本来、体操選手のすべり止めなどとして使われる白色の粉ですが、これをパレットの上で塗料と良くなじませて塗ると、つや消しの表面になるのです。多分これも模型専門誌に紹介されて知った方法だと思いますが、始めて薬局に買いに行った際に、薬局のおばさんから、"何に使うの?"と怪しまれたものでした。配合を間違えて、ちょっと適量を過ごすと、たちまち白く粉をふいた仕上がりとなった炭酸マグネシウム。懐かしい思い出のひとつです。


この頃内外の飛行機に関する資料の出版も徐々に充実してきました。この分野では英国の出版社から発売されていた"Profile"という小冊子が印象に残ります。一冊ごとに特定の機種を特集していて、豊富なカラー図がいかにもモデラーに受ける内容でした。まだ中学生程度の英語力では記事を読みこなすことは難しかったのですが、模型ばかり作っていっこうに勉強しない私には、"英語の勉強"ということで、両親への格好の言い訳として"Profile"を飽きもせず眺めていたものです。表紙に2シリングと値段の入った"Profile"には、まだ見ぬ外国へのあこがれを強烈に掻き立てる全てが詰まっていました。



kamikazeさすがに模型ばかりの青春とはいかなかった。kamikaze

中学校時代の3年間に、一体いくつ完成させたかは、もう今となっては判りません。そのほとんどは、私が高校に進学する69年の春に、両親の引越しが決まり、大きな洋服箱に入れたまま、移動の際に多くは破損し、ごく一部、修理されて私の自宅のショウケースに残されているもの以外は、今でも自宅の押し入れの中で箱の中で眠っています。あるいは、その後の引越しなどにより、いつのまにか失われたものも多いはずです。
その頃に作りきれずに未完成となったモデルは、ほとんど捨てずに持っています。購入後、30年以上を経て最近になって漸く完成したモデルもたくさんあります。ほとんど今では絶版となったキットで、今後とても完成させることはないだろう、と思えるものもあります。しかしひとつひとつ、思い出のたくさん詰まった、モデルばかりですので、とても処分する気にはなれないのです。


高校に入学し、親元を離れ寮生活が始まりました。
勉強部屋も寝室も全て大部屋で、寮生全員での共同生活という想像を絶する環境に放り込まれました。こうした環境では、とても模型作りなど落ち着いてやっていられません。しかし、模型は作らなくとも、専門誌の購読は欠かすことはできません。航空ファンとモデルアートは、出来るだけ買うように心掛け、最新のモデル情報をチェックするように努めたのです。高校生活も2年目になると、多少余裕が出来てくるようになりました。そして、その街の模型店をいくつか探索するうちにたどり着いたある小さな模型店で、私はずっと欲しくてならなかったあのエアフィックス製品がたくさん置かれているのを発見したのです。再び私の中のモデラーの虫が目を覚ましました。
フィアットG50,デハビランドDH88,ブリストルF2B,などのビニール袋入りキットに加えて、コンパクトで細長い箱入りの、ブレンハイム、シュトルモビク、99艦爆、ハンプデン。ごっそりと買い込んではみたものの、組み立てる場所というと、寮の大部屋の自分の机のみ。勉強のかたわら、時々取り出しては、ごそごそと仮組みしたり、ランナーからパーツを切り離したり、やれるのは、せいぜいそこまで。接着剤や、まして塗料などを使えば、臭いで周囲から文句が出るのは明らかでしたから、到底完成させるまでには至らない。何ともストレスの溜まる寮生活であったわけです。


1970年代に入って、世界の模型界はますます隆盛を極めるようになっていきます。
金型技術の発達、モデラーの評価基準が厳しくなっていったこと、各社が凌ぎあって他社に負けない、優れたモデルを市場に出そうとする競争などが相乗効果となって、発売される新製品は従来よりも飛躍的に正確なデッサン・精密なディテールを備えたモデルになっていったのです。
フランスの老舗エレール社が、それまでのスケールも定かでないボーっとした自社製品から脱皮して、まるでエアフィックス社に触発されたように、自国機を1/72シリーズで発売開始したのも、この頃でした。エアフィックス・フロッグは相変わらず活発に新製品を発表し続けます。
しかし、日本ではこの頃から飛行機モデルの大スケール化が急速に進んでいきます。
日本のメーカーでは、1/72スケールに関する限り、長谷川の独壇場でした。もう一方の大手、タミヤはもともと戦車をメインにしており、飛行機については、1/50または1/48に集中していましたが、その他のメーカー、フジミ・ニチモ・大滝も1/48追求の道を選びます。モデラーの購買力と品質要求が向上したことによって、各メーカーが、より収益力が高く、かつディテール再現の容易な大スケールに傾斜していったことは、むしろ自然なことです。
ただし、1/32や1/24まで進んだのは、当時の私にも、ちょっとやり過ぎだという感じを持たせました。もともと1/32スケールは米国のレベル社が最初にシリーズ化しましたが、コンテストへの出展作品などには、非常に適した大きさであるものの、コレクションとして続けるには、米国ならともかく、日本の一般住宅事情を考慮すると、息長くモデラーをつなぎとめて置くことは難しい商品ではないか、という気がしていたのです。
1/32ブームはたちまち日本メーカーにも伝播し、あの長谷川まで、この分野に参入していきます。1/72スケールは次第にマイナー化の兆しを見せ始めました。
こうした動きに多少幻滅を感じ始めた私は、そろそろ大学受験勉強に真面目に取り掛からねばならなくなっていた時期ということもあり、模型店通いもしばらくご無沙汰、という状態になりました。専門誌も書店で立ち読みする程度となり、毎年楽しみに購入していたモデルガイドも手に入らなくなりました。私の飛行機模型人生の中で、ちょっとしたブランク期間に入っていきます。

1972年の春、なんとか大学入学が決まり、生まれて初めて九州を離れて生活することになりました。環境が目まぐるしく変わっていく中で、大学のサークル活動などで時間をとられることもあって、大スケール隆盛となった飛行機を作ることへの興味を私は失っていたようです。模型に関する情報を積極的に集めることはしなくなりました。



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こうした状況が1年半あまり続いた頃でしょうか。とある書店でホビージャパンという名の模型専門誌を偶然手にしたのです。初めて聴く名前の専門誌でしたので、珍しさからパラパラとめくって見たのですが、飛行機は相変わらず、大スケール新製品の紹介。ただその専門誌は、ミリタリー物に力を入れており、最近ジオラマが人気になっていることを伝えていました。ジオラマといってもタミヤが世界標準にした1/35ではなく、もともと英国で鉄道模型ゲージとして開発されたHOスケール(1/76)。私も高校時代の友人がエアフィックスから発売されていた、いくつかのHOスケールの戦車をコレクションしていることは覚えていましたが、その同じスケールで、日本のフジミ模型が新たなシリーズを発表したというのです。
正直、飛行機に飽きていた私には、この分野がとても新鮮に感じました。小さなスケールなので、狭い下宿でもスペースの心配がなく、これまでやってきた1/72の飛行機とも近いスケールなので、並べて楽しむことも出来る。にわかに、しばらく眠っていたモデラーの虫がまたもやムクムクと目を覚ましていくのを感じました。ただし、今度は飛行機ではなく、戦車やトラックなどの'地上物'です。


それから大学を卒業するまでの間、私は飛行機を完全に忘れて、暇さえあれば、1/76の戦車や装甲車やトラックを作り続けました。模型店通いが再び日常化し、ミリタリーに関する参考資料類も買い漁りました。いろいろと調べていくうちに、北アフリカ戦線での独・伊・英軍の車両類に興味が湧き、この分野での私のコレクションは次第に、このテーマに収斂していきます。ジオラマブームはあっという間に去り、何時の間にかエアフィックスもフジミも、後から参入したニット−も、1/76の新製品を発表することはなくなりましたが、私はかき集めた資料集を元に、プラ板と市販キットからのパーツ流用で、いろんな車両のスクラッチビルトに没頭しました。飛行機と違って、直線で構成されることの多い軍事車両は、自作が比較的容易で、小スケールであることから、ディテールもあまり気を使う必要がなく、かつ市販の図面集が豊富に出回っているのも助かりました。ただ私が最も興味を持っていた、イタリアの車両に関する資料だけは不足していましたが。結局、地上物ばかり作っていた時代は、会社勤めを始めて、入社3年目に結婚するころまで、続くことになります。


私が、飛行機から遠ざかっていたおよそ7年間の間に、模型界の様相も随分変わってしまっていたようでした。日本のメーカーも淘汰が進み、品質と企画力で抜きん出た存在の長谷川・タミヤが中心メーカーとなっていました。特に長谷川は、大スケール全盛の時代にも、1/72の開発を続け、このジャンルでは、エアフィックス社を凌駕するほどの豊富なアイテムをキット化し、世界有数の飛行機モデルメーカーに成長していました。
日本機の分野でも、こと1/72に関しては、有名な機体は全て発売し、過去の他社製モデルを全て陳腐化してしまったのです。
人気が今ひとつだった陸軍機も、97式戦から4式戦疾風までは、すべて発売されましたし、97司偵、99軍偵も旧マニア金型を引き継いで、シリーズに加えられました。海軍機では、94式水偵を皮切りに、零戦の各型、紫電改、雷電、零式水偵、97式艦攻(旧マニア)。それに2式大艇、連山、1式陸攻、97式大艇、と大物も発売されました。そして何よりも画期的だったのは、レベル社が昔の汚名挽回とばかりに、かなり水準の高い日本機モデルをいくつか1/72スケールで発売したのでした。アイテムは、これまで日本メーカーがまともなキットを作っていなかったものばかり。屠龍、月光、銀河、呑龍、そして97式重爆の5種類です。前述のLSからの新製品、97司偵、100式司偵、93式中練がリリースされたのも、確かこの時代だったと思います。


こうした日本機キットの充実ぶりにも、しばらくの間、私は鈍感でした。'地上物'にまだ未練がありましたし、仕事も忙しくて、模型ばかりに地道をあげてはいられなかったからです。
妻は、結婚前から私の趣味については理解をしてくれていましたが、どうも'地上物'は好きではなかったようです。確かに軍用車両というのは、形も殺伐としていますし、私が主に作っていた、北アフリカ戦線の車両は両軍とも、全て砂色のカモフラージュで見栄えしないこと甚だしい。私の実家に来た時など、子供の頃に私が作った飛行機モデルを見ては、"飛行機の方がきれいでいいなあ。"と、良く言われたものでした。まあ、それだけが動機というわけではないのですが、私もそろそろ飛行機に戻ろうか、と次第に考え始めていたのです。何しろ、子供の頃から溜め込んだ未組立ての膨大なストックを、結婚と同時に、実家から引き取ったわけですから。そしてとうとう、長年夢みていたコンプレッサーを買ったことで、飛行機モデルへの回帰は一気に加速します。



m52病膏肓(やまいこーこー)へのスパートm52

結婚して2年目に東京本社での勤務となリました。専門誌の広告でしか知らなかった模型店を訪ね歩くことの楽しさ。代々木のポストホビー、笹塚のえんどう、市川のマキシム、八千代のマニアホビー。しばらくのブランクを埋め尽くすように、私のモデル製作は加速し、キットの購入も天井知らずとなっていきます。
再び飛行機モデルの世界に戻ってみて、気づいたことは、キットの品質の点では、日本製が外国製を明らかに追い越していること。世界最古のプラモデルメーカーであったフロッグ社が倒産し、エアフィックス社もピークを過ぎて製品開発スピードが落ちていることなど、老舗の退潮が目立つ反面、新興のマッチボックス社が台頭していること。さらにレベル社を始め、他の米国メーカー、モノグラム、リンドバーグ、ホークなど一様に活力がなくなっていることでした。フランスのエレール社は相変わらず元気良く新製品を発表しており、新興のイタレリというイタリアのメーカーも頑張っていましたが、この世界も移り変わりが激しいのだな、と感慨を新たにしたものです。


手当たり次第に気の向いた順番に作り続けた私のモデルは、第一次大戦機から第二次大戦機まで、国籍を問わず、ただ1/72のみ、という範囲で次々に完成していきました。キットそのものの出来が以前と比べて格段に向上しているものですから、修正にそれほどの時間をかけなくて済み、かつコンプレッサーによる吹付け塗装を駆使することで、塗装の仕上がりと 作業効率は飛躍的に上昇するのです。それでも、休日の多くの時間を部屋に閉じこもって、接着剤や有機塗料の臭いをふりまきながら、模型製作に没頭する自分を今、思い起こすとき、妻や子供たちには悪かったな、と大いに反省しています。


80年代は、プラモデルが子供たちの楽しみではなくなり、一部の大人の趣味に変化していった時代です。特に、1/72スケールのレシプロ機を中心としたコレクションになると、ほぼ私のような、子供の頃からのモデラーが、大人になってもしつこく続けているようなケースに限られるようになったのではないでしょうか。
オイルショックを経て、プラスティックモデルの開発・製造コストが高騰した結果、大手メーカーの企業体質は極めてリスキーなものになりました。高価な金型コストの償却負担を考えると、一定の収益を期待できるようなネームヴァリューのあるアイテムしか企画できない。とは言え、過去20年に亘って延々と世界中のメーカーが1/72キットを作り続けてきたのだから、そうそうペイしそうな開発機種は残っていない、というジレンマ。この問題をクリアするために製品価格を引き上げる。ますます子供達の買えないモデルになっていく。販売数量が伸びない、の悪循環に陥っていくのです。
それでも、我々モデラーから見ると、まだまだ日の目を見ていない、旧日本機はたくさんありました。天山、彩雲、5式戦、烈風、流星、紫電、そういえば99式艦爆だってエアフィックス以外まともなキットは無い。1/72クラスで、まだまだ開発の進んでいない日本機アイテムを、一体どこが作ってくれるのだろう。


海外でも同様の環境変化が起っていました。米国でも英国でも、最早1/72の飛行機は収益を生むことのない製品分野になりつつあったのです。既存メーカーには頼れない。いち早く危機感を感じた海外のマニア達は、全く新しい行動を取るようになります。簡易の真空成形機を使って、自分たちで好きなマイナーアイテムをキット化してしまう、というのが、その答えでした。一般にヴァキュ−ム・フォーム・キットと呼ばれるこうしたキットは、ある程度の模型製作技術を持った人間には、珍しいキットをコレクションに加えることのできる、大変魅力的な手段だったのです。後にはレジン製の簡易キットも加わり、総称してガレージキットと呼ばれるこうしたモデル達によって、1/72飛行機の世界は隙間がまたたくまに埋められていくことになります。



ki27ひのまるオジさん再びki27

日本では、80年代後半に、折からの旧日本軍機のちょっとしたリバイバルブームもあって、新しいアイテムの発売が活発になりました。その先頭に立ったのはフジミ模型でした。そして、かつてのマニア社を彷彿とさせるファインモールドという名の小さなメーカーも、この分野に参入しました。老舗の長谷川もこの動きに刺激されたのか、最新の金型技術で旧日本機アイテムのリメイクを開始します。
さらに90年代に入ると、海外で意外な動きが始まります。皮切りはチェコの簡易キットメーカーMPM社が自国機だけでなく、日本機をそのシリーズに加え始めたこと。同じタイミングで米国のアヴィエーション・アスク社も日本機を熱心に作り始めます。これらの現在まで続く動きの中で、今ではよほどのマイナーアイテムでない限り、また少々の出来の悪さに目をつむる限りは、キット化されていない1/72アイテムを捜す方が難しいほどになりました。80年代後半以降にリリースされた、こうしたモデルを、私が実際に入手しているキットの範囲でリストしてみます。全て1/72スケールです。


〔海軍機〕
10年式艦攻;コロツィモデル(レジン)
13年式艦攻;コロツィモデル(レジン)
14年式水偵;コロツィモデル(レジン)
3式艦戦;ヴァルハラ
89式艦攻;コロツィモデル(レジン)
90式艦戦;ファインモールド
90式水偵;エソテリック(ヴァキューム)
90式機作練;チェックマスター(レジン)
92式艦攻;コロツィモデル(レジン)
93式陸攻;コロツィモデル(レジン)
94式水偵2型;長谷川(レジン)
95式水偵;アヴィエーション・アスク
96式艦戦;フジミ
96式陸攻;長谷川
96式艦攻;コロツィモデル(レジン)
96式艦爆;コロツィモデル(レジン)
97式艦攻2型;MPM
98式水偵;フジミ
99式艦爆11型・22型;フジミ
零戦21型・32型・52型;長谷川
零観;フジミ/アヴィエーション・アスク
1式陸攻24型;長谷川
2式水戦;長谷川
紫電;MPM/アオシマ
紫電改;アオシマ
雷電;長谷川
彗星12型・33型;フジミ
天山;フジミ
銀河;長谷川
烈風;ファインモールド
流星;フジミ
強風;長谷川
紫雲;アヴィエーション・アスク
彩雲;フジミ
瑞雲;フジミ
白菊;MPM
晴嵐;MPM/タミヤ
景雲;ファインモールド
東海;ファインモールド
零式小型水偵;フジミ

〔陸軍機〕
甲4式戦闘機;エソテリック(レジン)
乙式サルムソン偵察機;ペガサス
88式偵察機;コロツィ(レジン)
91式戦闘機;レアプレーン(ヴァキューム)
92式戦闘機;コロツィ(レジン)
92式偵察機;コロツィ(レジン)
93式軽爆;コロツィ(レジン)
94式偵察機;CMK(レジン)
95式戦;アヴィエーション・アスク
95式中練;コロツィ(レジン)
97式重爆;MPM
97式軽爆;パブラ
98式軽爆;アヴィエーション・アスク
98式直協;フジミ
99式高練;フジミ
99式双軽;長谷川
100式重爆呑竜;長谷川
100式司偵;長谷川
1式戦隼1型;フジミ
1式戦隼2型;長谷川
1式輸送機;フレンドシップ(ヴァキューム)
2式戦ショウキ;長谷川
2式複戦屠龍;長谷川
3式戦飛燕;長谷川
3式指揮連絡機;アヴィエーション・アスク
研3高速機;フレンドシップ(レジン)
4式戦疾風;長谷川
4式初練紅葉;フーマ
5式戦;ファインモールド
カ号オートジャイロ;ファインモールド
キ102;MPM
キ115;アヴィエーション・アスク
キ77長距離機;フレンドシップ(ヴァキューム)
航研長距離機;メカドール(レジン)


勿論、大手の長谷川やフジミが作ってくれたアイテムについては、出来の点で何の不満もありません。また、出来の点ではかなり厳しいキットもありますが、なんと言っても 1/72スケールでこれだけのアイテムが自分のものになろうとは。小学生の頃の、私の夢はほぼ完全に実現してしまった訳です。
あとは、全てを完成させるという大作業が残っていますが。

1988年に柏の近くに新居を作り、長年住み慣れた市川の社宅から引っ越しました。
新居を建てる際には、家の中心の居間に作りつけのショウケースを据えました。これも、子供の頃からの夢で、これまで作り貯めた完成機は全て、そこに収められました。
二階の自室には、製作に備えて換気扇を取り付け、収納庫は未完成の模型の箱でびっしりとスペースを埋められることになりました。製作環境も整い完成機も平均2週間に一機のペースで着実に増えていき、新居でのモデルライフは順調かつ快適そのものでした。
しかし、この生活もまた中断することになります。引越しからおよそ1年がたった頃、私は家族と一緒に米国へ転勤することになったのです。
遠い米国まで完成品を持っていくわけにはいかないし、いずれ帰ってくることを思えば、なにしろ壊れ物なので、米国でどんどん模型を作るのも問題。やむなく、完成品を収納したショウケースは他人に家を貸すことを考慮して鍵を取り付け、未完成品のストックの山からは、最小限のキットを取り分けて、後日家族の引越し荷物に入れ込むよう、妻に託しました。当分模型は作れなくなるけれど、しかし私は海外での仕事が非常に楽しみでしたし、いき先の米国は家族にとってもきっと、将来そこでの生活経験が財産になるはずだ、との確信があったので全く苦にはなりませんでした。それに、子供の頃憧れの目で見つめたあのレベル社やモノグラム社を生んだプラモデル先進国、アメリカへ行けば、まだ自分の知らない模型や、本物の古典機達に会えるだろうとの楽しい予感もありました。



veedolヒコーキ狂 in Americaveedol

1989年6月にニューヨークに転勤。2ヶ月の単身赴任の後、家族を呼び寄せる手はずです。借家は前任者の契約をそのまま引き継ぐ形ですんなりと決まりましたが、仕事に関しては言葉の壁に、冷や汗三斗の日々が続くことになります。
それでも、マンハッタン一人暮らしの気安さから、電話帳で模型店を探しては出かけるようになりました。意外にも会社から歩いて10分程度の中心部に、マンハッタンで一番大きなモデルショップがあったのです。ある夏の日の昼休みに、初めてそのモデルショップを訪れた時のことは、まだはっきりと覚えています。5番街46丁目の地下に降りていくと、配管むきだしのゴチャゴチャとしたレイアウトながら、意外に奥行きの広い店でした。
飛行機モデルのコーナーを捜し当てて、まず驚いたのは、陳列棚の2/3以上のスペースが日本製のモデルで占められていることでした。残りはほとんど欧州のメーカーでした。あのモノグラムでさえ片隅にわずか店晒しとなっているだけで、もう一つの老舗であったレベルの製品は皆無。地元アメリカでは、模型業界そのものが明らかに衰退しつつあるのだ、という実感が沸きました。日本製モデルは当然のことながら、日本国内よりも割高(日本の1.5倍くらいか)。欧州製モデルは逆に、日本で買うよりは30%くらい割安な感覚でした。いずれにせよ、日本で手に入らず米国でしか買えない、というようなモデルはもう世の中には無いのか、と拍子抜けすると同時に、期待が大きかっただけに、正直ガッカリしました。結局そこで買ったのは、日本を出発する時には発売されていなかった、ファインモールドの90式艦戦のみでした。
収穫がほとんどなく、わざわざ割高な日本キットだけを手に入れるにとどまったことで、私は模型関係については、この国で暮らす限りは大きな期待は出来ないのかな、と思ったものです。
ところが、それは全く底の浅い見方であることを、後日思い知らされます。


家族も着任して徐々に生活が落ち着いてきた、ある秋の日、私は駅前の書店で見つけた模型専門誌の広告欄の中に、"ヴァキューム・フォーム・キット多数品揃えあり"と記載された、とあるモデルショップの広告を見つけたのでした。場所は自宅から車で30分ほどのハドソン川に近い小さな街のようです。早速その週末に出かけることにしました。
田舎町の目立たない小さなモデルショップに足を踏み入れた途端、私は全てを悟りました。"これこそ自分が捜していた店だ"、と。
Wings & Wheelsという名のその店は、いかにもマニアっぽい髭面の太ったおじさんがひとりで経営しているモデルショップでしたが、1/72のヴァキュームキットが、棚に山積みとなっているのです。聞いた事も無い名前のヴァキュームメーカーが、とんでもないマイナーなアイテムを山のように発売している。その多くは米国製で残りは英国製という感じでした。簡易金型でマニアが手作りで作ったような珍しいアイテムもたくさんありました。 大手メーカーが衰退した80年代の初め頃から、この国では、マニアによるガレージキット化が猛烈に進んでいたのでした。
私は第一次大戦の古典機と英国のコントレールというメーカーが出している1930年代の英国機をかなりまとめ買いして、その日は帰りました。
その後、頻繁にその店を訪れるようになり、顔を覚えてくれた店の主人と模型談義を含む立ち話もするようになり、米国内のガレージキットメーカーをいくつか紹介もしてもらい、直接注文の方法を教えてもらうまでになりました。
1920〜1930年代の米国の民間機ばかりを作っているメーカーや、第一次大戦のドイツ機ばかり作っているメーカー、また完成モデルに張り付けるマーク(デカール)を個人で 専門に発売しているマニアもいました。また米国の東海岸は歴史、文化的に英国と極めて近い関係にあることから、英国のガレージキットメーカーからまとめて輸入して再販する、そうした業者もあることが判りました。そうした業者に定期的に新製品情報を送ってもらうことで、自分の欲しいキットは相当の確率で手に入るのです。


また米国中を出張で飛び回るうちに、本物の古い飛行機を保存した航空博物館のようなものが、全米にたくさんあることにも驚かされました。有名なワシントンのスミソニアン博物館、デイトンの米空軍博物館には、何度"取材"に行ったか判りません。
それ以外にも コネチカット州ハートフォード空港のそばの航空博物館、家族との夏の旅行の途中で立ち寄ったメイン州の航空博物館。そしてなんと言っても楽しかったのは、ハドソン川を3時間ほど北上した森の中の、ラインバック・エアロドームでした。
第一次大戦の英・独の戦闘機が飛べる状態で保存されており、夏の週末は模擬空中戦をやって見せてくれる他、ブレリオ、コードロン、デュペルデッサンなど古典機による様々なアトラクションを用意しているのです。さらには、そこでは何と複葉機に体験試乗してハドソン河畔の広大な森の上空を20分間にわたって飛べる、というサービスも用意されていました。乗客はゴーグルとヘルメットを与えられ、剥き出しの座席に座って本物の飛行を体験できる。なんと心躍る企画でしょう。私は矢もたてもたまらず申し込もうとしたのですが、あいにく予約が一杯で3時間も待たねばならなかったことと、こわがる家族からの"懇願"もあってやむなく断念。
次回は是非、と今でも密かに機会を狙っているのですが。


米国での4年間は、満足にモデルを完成させることは出来ませんでしたが、これまで自分の知らなかった、飛行機の世界を知る、素晴らしい経験となりました。米国人はライト兄弟を生んだことで、航空のパイオニアとしての栄誉を永久のものとし、しかも現在では世界の航空界をほぼ独占することで、国全体として、航空に対する関心が極めて強い国民のように思われます。その米国人が'The Golden Age of Aviation'と呼ぶ、1920年代から30年代にかけては、航空の一大発展期であり、ユニークな機種が世界中で輩出した時代です。米国では、この時代の航空機や関連の資料が豊富に保存されており、私はこれまでほとんど知らなかったこの時代への興味を急激にかきたてられました。
しかしこの時代の機種が過去にモデル化された事例は極めて少ないのです。これまでの模型界は、人気の高い軍用機に偏重しており、基本的に平和の時代であった1920〜30年代については、軍用機は有名な機種が少なく、ポピュラーでない民間機は、よほど有名なエピソードを持つ機体以外は、キット化が見送られてきたことが理由でした。 それでも、この分野もマニア達の情熱によって、かなりの数のガレージキットが発売されており、米国駐在中に、それらの多くを入手することもできたのです。


4年間の米国生活を終えて帰途についた私は、"帰ったら、この時代の飛行機を中心に作りたい。"との想いが次第に強くなっていくのを感じていました。駐在時代に買い貯めた、たくさんの未完成キットと膨大な関連資料が帰国荷物の中に入っていました。




otoriまだ夢の続きotori

帰国して、再び輸出営業という海外に関わる仕事についたことで、世界各地への出張の機会を得るようになりました。業務出張という限られた時間の中でのやりくりではありますが、滞在地に航空博物館のようなスポットがあるようであれば立ち寄らない手はありません。ロンドンの空軍博物館から、南米アルゼンチンのブエノスアイレス空港そばの空軍博物館。ペルーの空港では思いがけず、ジェオ・チャベースの悲劇のブレリオ機レプリカにも遭遇しましたし、オーストラリアのブリスベーンでは、有名なフォッカー・サザンクロス号との感激の対面も果たしました。
そして、2002年の夏には、妻との欧州旅行の折り、30年以上も訪問を夢見ていた、英国のシャトルワース航空コレクションを訪れることができました。米国で訪れたラインバック・エアロドロームのように、実際に古典機を飛べる状態で保存している、非常に珍しい航空博物館です。高校生の頃、航空専門誌で、その存在を知って以来、いつか出かけてみたい場所でした。その日は平日とあって、実際に飛行機を飛ばしてはいませんでしたが、格納庫をそのまま展示場とした、ゆったりとしたスペースに、英国製の古典機を中心に、初めて実物を観る機種ばかり。やはり実物の迫力というのは素晴らしい。模型を集めるというのは、本物を集める事が不可能なための代謝行為に過ぎないなのだなあ、とつくづく悟らされました。


モデルについては、若い頃のように寸暇を惜しんで作り続けることは無くなりましたが、それでも週末は自宅の製作室で手を動かしていることが格好のストレス解消です。
米国から帰国して以降の製作ペースは平均して30機/年。そのほとんどが1920〜30年代の民間機、軍用機、そして日本の機体だけは戦時中の軍用機も相変わらず作ります。なんと言っても私の模型人生のスタートは、日本機でしたから。
同時並行で常に20機前後が工程途上の状態にあります。それでも新たなアイテムが発売されれば買い込み続けるものですから、未完成ストックはどんどん増えていき、押し入れはパンク状態。いつの頃からか、あまりにもストックが多いので、模型店に行っても久しぶりの再販キットなど見つけると、すでに持っているキットなのかどうか判らなくなり、買うべきかどうかで大いに悩む。また折角30年以上にわたって溜め込んだ資料類も、いざ製作の段階で、一体どこを捜せば出てくるのか判らず、結局は資料に頼らずに完成させてしまい、後で見つかった資料を見て間違いに気づいて地団駄を踏むなど、ほとんど"病気"の状態になってしまいました。
一念発起してパソコンを購入し、全ストックのリストを作成。各機種毎に、リファランスの欄を設け、その機種についての資料が一目で索引できるよう、手持ち資料類を全て分類したのは1995年頃の話です。


人生とは夢を削りつづけることだ、という意味の歌が昔あった気がします。確かに真理を穿った言葉だとは思いますが、一方で私の生涯の趣味である飛行機模型に関して言うと、少年の頃の多くの夢が、一つ一つ叶えられてきた過程でもあります。その意味では、幸せな趣味を我ながら持ったものだなあ、とつくづく思います。
模型を完成させるには多くの時間が必要ですが、一機一機完成させていくことで、夢が実現していくのは本当に楽しいものです。まず確実に一生かかっても作りきれない膨大なストックを抱えている私ですが、それは尽きることのない夢をこれからも持ち続けることの保証でもあるのですから。
これからも模型を集め続け、作り続け、そして世界中の航空史ゆかりのスポットを行脚し続けていきたいと思います。
では最後に、こうした趣味を永年に亘って支えてくれた、妻と娘たちに感謝!!

   (終) 
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